昭和48年10月25日 朝の御理解



 御理解 第81節
 「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」

 信心を頂いて、何処までで信心が良いと言う事ではないけれども、せめて此処までは信心を頂いておくと、此処までは頂いておきたいという。おかげとはどう言う事であろうか、此処からの信心というのはまた、限りない事である。けどせめて此処までは頂いておきたい。十里の坂を九里半登っても安心してはならぬ。此処まで頂いたら安心じゃ。子駒で頂いたら、信心頂いておる値打ちと言う物は、是からじゃと言う所を、どう言う所に焦点をおいたら良いかと。
 此の度の私の伊勢参宮、そから足をのばして東京へまで参りまして、昨夜帰って参りました。帰って神様にお礼お届けをさして頂きよりましたら、藤棚が一杯このう葉がしこってですねいる所を頂いた。所が少しその柱が小さいもんですから、上の重みの方が少し多いと言う感じ。同時にまた向こうの方へ蔓がいっとるからも少し拡げなければいけん。も少し拡げなければならない。も少し強めなければならない柱藤棚を。そう言う様な状況を頂いたのですが、まあどう言う事であろうかと思うておりましたら。
 まあ今日の御理解を頂いて見てです。是はまぁだ私がおらないと言う訳にはまぁだいけない。私が今死んじゃでけない。も暫くはもちっと強いもの、もすこし頑丈なもの少しは広めておかねばいけない。まそんな感じがしたんですっけれどもね。まぁああしたの支えになる所の、まあ何処に参りましても、もう御子息達が、ちゃっとお家をやっておいでられますから、まあ先生、こちらへ何日逗留されてもと言った様な風に、あちらの親戚の方達からも言われました。
 はあ、もう子供達がしっかりやってくれますし、又修行生の方達が沢山おりますし、又、あのう総代さん方、幹部の方達がしゃんとやって行ってくれておりますから、もう私はおらんでも良いですと言う様な事を言われたり、又言ったりして参りましたけれども、実はまだまだ、そうではないなと言う感じが致します。私自信の信心をもっともっと、もっと強い物に、同時にその強い物に添うとするなら皆さんの信心というのが、も少し出来なければいけないねと言う事でした。
 今朝から私は、お礼を申しさして頂きよりましたら、四神金光様の御教えに、「船もろともと云う気になれは楽じゃ」という御教えがあります。船もろともにと云う気になれは楽じゃと。はあこのこの船が揺れようが、この船がえらい波が高いが、天候が悪いが、まあどうなる事じゃろうか。沈没する様な事はないじゃろかと、言っておる間はまだ不安である。まだそれは心配である。けれども船もろともという気になれば楽じゃと。私はですね合楽でも、もう先生ともろともという言うなら。
 私の信心を頂いて下さる方達の中にそう云う方達が、もっともっと出来けなければならない。今日私が此処までは信心を進めておきたいというのはね、その事で御座います。先生と一緒なら先生ともろとも、と云う気にならせて頂けると言う事。そういう例えば、信心者が合楽教会の、もっともっと出来なければ、それでなからなけねば、合楽の柱にはなれません。船もろともと云う気になる信心です。合楽ともろとも親先生ともろとも。それが例えば安易な所から出て来るのであってはなりません。
 例えばなら今度の伊勢参宮、それから東京行きにはどうでも、今度は皆一行が申しました。もう本当に親先生と一緒にと言う事は、私の体の限界と言う物を、今度はっきりこう自分でも知った様な気が致しますと言うとる。日の内何回かですね、もう時間が来ると体がとにかくきつくなるのです。けど東京へ例えば参りましても、まあ銘々で私を案内したいと言う御親戚の方達が皆んな、今日は誰々さん、今日は誰さんという具合でしたけれども、今日は何処何処行くけども。
 例えば浅草なら浅草へ一軒行くと、もう帰って来たら寝なけりゃいけん。今日はお芝居一つ見たら、お芝居一つだけでもう一杯なんです。ですからまあ皆さんは手持ち無沙汰といった、楽過ぎるけれども私の体がそうですから、是はもうどうでんこうでん、他所に行きなさる時には、繁おっちゃまの手をいっちょ借って来にゃでけんち、と皆んなが言う位でしたね。是は例えば私が行く所なら繁雄さんが居ってもらわにゃ困る。是は皆んなが実感した事です。こちらへ来てみれば、来て見る程それを感じた。
 そこでなら、ところで繁雄さんは船酔いをされたり、車酔いをされるので、とても親先生のお供は出来ないとこう言う事で。そこで例えばですなら例を今日の御理解から引くとです、もう親先生ともろともと云う気になっての信心になられたら、おかげを受けられると思うですね。返って酔うてから御迷惑を掛けはせんだろうかと、その事が既にいけない事です。なら一行の中に今度東京行きが、まあ私共親子三人と言う事になりました。それで皆さんが、それぞれに用がある、まあ有った訳です。
 それで皆そのまま、まぁ行って下さっても私は良いと思った位でしたけれども、皆それぞれに用がある。是からは親子三人でお出下さいと言う事であった。まあ色々話の結果なら信徒会長の秋永先生と高橋さんがならお供をすると言う事になって、まあ大変そりゃ来てもらって良かったと思った。それもこう云う時でもです折角私がそれを望み願っておるのですから、もう親先生ともろとももう金の事はもう親先生任せます。
 もう家の色んな事情も御座いましょうけれども、もう親先生が是からまた十日二十日、なら旅行を続けられても、もう一緒に参ります。と言う様な私はね、是はだから浅はかな考えからではいけないと云う事なんです。まあ遊びに付いて行くと言った様な事ではけないのです。それは是から先なら金も相当要るかもしれん。なら自分の体に自信がないかも知れません。又家庭には何日の日には自分が居らねばどうにも出来ないという、問題があるかも知れません。
 けれども腹を決めたら、私はあの親先生と諸共にと云う事になると思うんです。私はそういう信心がまだ々合楽では欠けておるなと云う事を感じました。その時にどうでも親先生お供させて頂きたいと思いますが金がありません。いや金の事は心配なさんなと私が言うたでしょ。又こう言う風に家庭の事情が店の事情が、又はこう云う用件が御座いますがとまあお届けする人があったら、それは神様にお任せして行かんのと私が言うたでしょう。どうも体がなんですね。
 もうこの辺で帰らせて貰おうと思いますという。行きたいと思うのですけど、そんならそげんお願いしょうと言ったに違いありません。それを手前の所で決めてしまっている。是はまだ々船もろともと言う事にならん。是は今度私と同行した人達だけじゃありません。留守番をしておる、又は残っておる皆さんの上にもです、いよいよ其処ん所の四神様が仰る、船もろともという気になれは楽じゃという。信心がもちっとね、すっきりと出来なければいけない。
 氏子十里の坂を九里半登っても是ほどの信心をさして頂いておると言う事に成ります。言うならもう、九里半登ったと言うても良いかも知れません。ね。けれどもそれではまだ々油断は出来けん。まあだ親先生ともろともという、腹も度胸も出来いないと言う所がです、まあ残されたまぁあと半道と言う所ではないだろうかと、こう今日は思わして頂いた。今日は此処ん所是だけ信心したからと言うのでやれ々と言う事ではない、九里半がもう九里がもうそこになら峠が見えておってもです。
 安心してはならないと言う事でしょうけれどもです、なら向こうへ降りたら安心じゃと仰る。なら向こうへ降りたと言う所をです、私は此処までは頂いておきたいというのはですね、私共信心が、皆さんの信心が此処までは出来でおられる。是程立派な信心が出来でおられる。誰が見ても何処から見ても。私は今度は東京の銀座の教会に、あちらに参りましたからすぐ、あちらでお引き寄せ頂きましたが、まあ色々そこで実感して、成程合楽の御信者さん方は或る意味では出来ておるなと言う事を痛感して参りました。
 何処へ行きましてもそれを感じました。だからもう言うならば、九里半登り詰めておると言う感じが致しました。けれどもなら親先生ともろともに、と言う所までは行っていないと言う事なんです。そういう柱がもっともっと沢山なからなければ、夕方に頂きました藤棚からもう落ちようとしている。柱が小さいから折れだんせんじゃろうかという不安がある。同時にその藤棚がもう足らないで向こうの方までこうやって伸びとる。
 もちっと広ろめなければならない。柱を頑丈にしなければならない。安易な意味でのです、安易な意味での、もう親先生の言わっしゃる通りにしとけば良いがのと、此処ではよく言いますよね。親先生に委せると。けれどもさあ、愈々の時には委せも切らんじゃないですか。愈々の時にはもう、親先生ともろともと云う気になり切らんじゃないですか。ですから、せめて此処までは頂いておきたい。そこまで頂けば安心じゃと、今日はそういう意味で聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。